カニサンド

手に持ったトレイには、断面が色鮮やかなカニサンドと淹れたてのコーヒーが載せられている。そのいい香りを漂わせながら、ユル・ヘップバーンの妻、ラド・ヘップバーンはDWCの廊下を歩いていた。
我ながら良い出来栄えに、上機嫌で鼻歌混じりに向かったCEO室には、残念な事に愛する夫の姿は無かった。
「あなた?いらっしゃらないのかしら…」
いつも座っている筈のデスクは空で、サンドイッチを持ったまま途方に暮れていると、奥から声が聞こえてきた。
「これはこれは…CEOの奥方ではないですか…」
影になった位置からゆっくりと現れた大きな存在。
夫が以前に目覚めさせたレジェンズ、ウインドラゴンのランシーンの姿がそこにあった。
「…ッ!?」
思わずトレイを取り落としそうになる。
悲鳴を上げなかったのは、あの時とは違って先に声を掛けられたからに過ぎない。
「ラ、ランシーンさん…こんにちは…」
なんとか挨拶をするも、恐怖で身体が震えてしまう。
カタカタとトレイに乗った食器が音を立てているのに気付いたのだろう。側に近寄ろうとしていたランシーンは、離れた場所で立ち止まった。
「はい、こんにちは」
それ以上側に来ないのは、彼なりの気遣いだろうか。
それでも竦んでしまう身体に、ラドは以前夫と話した事を思い返していた。


『ラド…あんな事をしてしまった私が言うのは、説得力がないかもしれないが…』
ユルは自嘲気味にそう前置きをしながら、こちらを安心させる様に優しく肩を抱き寄せながらラドに話す。
『レジェンズは…少なくともランシーンやシロンたちは、ラドや人間に危害を加えたりは絶対にしない。それだけは信じてほしい』
『でも…、やっぱり怖い…』
俯くラドの肩を安心させるように柔らかく叩きながら、微笑んだ。
『ハルカの大事な存在はシロンなんだよ?可愛い娘の相手なんだ、大丈夫さ。それにランシーンも私の相棒みたいなものだ、怖がる事は何もないよ』

そう、怖がらなくても大丈夫…自分に言い聞かせながら、ランシーンを見上げた。
妖しげな笑みを浮かべてこちらを見下ろすランシーンに、頭ではわかっていても怖さは消しきれなかった。
それでも何とか会話しようと、口籠もりながらも話しかける。
「あ、あの…夫は…?」
「CEOなら所用で少しの間出ると。もうしばらく待てば帰ってくるはずですよ」
「そ、そう、ですか…」
それで会話は途切れた。
ランシーンもそれきり黙ってしまい、居心地の悪い沈黙が続いてしまう。
夫が居ないなら出直せば良かったと思いながらも、もはやタイミングを失ってしまった。
どうしても拭えない恐怖に会話する事も出来ず、部屋から退出も出来ず、トレイを持ったままラドは沈黙を持て余していた。
どうしたものか…と考えていたら、ランシーンが一歩だけ側に寄り手元のトレイを覗き込んでいた。
「…ッ!」
近づいた存在に、思わずびくりと身体が反応して一歩下がるとトレイに載った皿がガチャリと鳴る。
ランシーンはそれ以上は近づかないまま、その大きな指で皿のサンドイッチを示した。
「それは貴女が作ったカニサンドですか?初めてお会いした時も、持っていましたね。CEOが絶品だと随分褒めていましたよ」
「あ…ありがとう、ございます…」
褒められたので、とりあえずお礼を口にする。
ランシーンはカニサンドをまじまじと見ながら呟いた。
「一度、私も味わってみたいものですねぇ」
思ってもない言葉に思わず彼を見上げる。
お世辞や社交辞令ではなさそうな雰囲気に、自然とトレイを差し出していた。
「えッ!?あ…えっと…よ、よかったら、これ…め、召し上がってください」
差し出されたサンドイッチに、目を丸くしてランシーンは見下ろしていた。
そう言われるとは思ってもなかったのだろう。
「…良いのですか?これはCEOに…貴女の夫の為に持ってきたものでしょう?」
「え、ええ…でも夫が不在ですし…また作ればいいので…」
再度トレイを差し出すと、ランシーンは少し考えた後に受け取る為にもう一歩側に寄った。
思わず引こうとした足をなんとか押し留めながら、ランシーンが受け取るのを待つ。
「では、遠慮なくいただきましょう」
手を伸ばし、そっとトレイを受け取ったランシーンが一歩下がると、ラドは思わず詰めていた息をほっと吐いた。
それをランシーンは、目を細めて見つめていた。


* * *

美味しそうなサンドイッチを受け取り、一歩詰めた距離を戻すと、ラド・ヘップバーンは安心したように息をついた。
そんな姿にランシーンは、自嘲した。
「…やはり、まだ私が怖いですか?」
「え?」
唐突な呟きに、彼女は驚いたように顔をあげる。
「そうですよねぇ…こんなに身体が大きくて、鋭い牙や尖った爪がある姿は、怖いですよねぇ…」
自らの大きな手と尖った爪先を見ながら言うと、ラドは申し訳無さそうに眉尻を下げた。
「…ごめんなさい。大丈夫だって事は分っているんです。でも、身体が言う事を聞かなくて…本当にごめんなさい…」
ラドの謝罪を首を振って遮る。
「無理もないですね。その恐怖を感じたが為にジャバウォックの糧とされたのだから、そう簡単に恐怖が消える事もないでしょう」
「ごめんなさい…」
それでも繰り返される謝罪を、再び首を振って遮った。
「いいえ、貴方が謝る事じゃあない。むしろ、謝らなければならないのは、私の方です」
そう、彼女が謝る事は何一つない。
怖がる事は悪い事ではない。自然な感情なのだから。
それにあの頃は、繁栄し過ぎた文明によって蝕まれた地球を救う為、その文明を作り上げた人間を滅ぼす事が、その為にもレジェンズウォーを起こすことが自分の使命だと思っていた。
それに危機感を抱いたユルは、偶然にランシーンと出会い恐怖に飲み込まれてしまったラドを利用することを思いついてしまった。
レジェンズに対抗しうる最強の闇のレジェンズ、ジャバウォックを甦らせる為に。
結果彼女は10年以上も、醒めない恐怖の感情を糧にジャバウォックに寄生されていたのだ。
ランシーンがジャバウォックにとりついた時、残留していたラドの恐怖を感じた。あれ程の負の感情を抱えていたなど、想像もしなかった。
ジャバウォックを甦らせる為に負の感情を意図的に蓄えさせられていたのかもしれないが、それでもあれ程の…

「…あ、あの、ランシーン、さん…」
思考に沈んでいたところ、沈黙に耐えかねたのかラドがおずおずと声を掛けてきた。
「はい、なんでしょう」
怖がられないよう、努めて穏やかに返答する。
「正直、あなたの事はまだ怖いんです。…慣れることが出来るかもわからないけど…」
何かを伝えようと言葉を探してる姿に、無言で見つめて続きを待つ。
「でも、貴方は大切な娘を…ハルカを助けてくれました。私の身代わりになろうとしたハルカを。その事は紛れもない事実だから…怖くても、ちゃんとお礼を言わなければいけません」
先ほどまでのラドの体の震えは止まっていた。いや、よく見れば手はまだ震えている。
それでもひとつ大きく深呼吸しながらスッと背を伸ばし、まっすぐこちらを見上げてラド・ヘップバーンはぎこちなさを残しながらも微笑んだ。
「娘を助けていただきまして、本当にありがとうございました」
伸ばした背筋を丁寧に折り、頭を下げて感謝を伝えてきた。
その姿をランシーンは目を細めて見やる。
娘のために恐怖の対象に頭を下げる。こうして感謝されるなど、あの時の自分は思いもしなかっただろう。胸にじわりと温かいものが広がる気がした。
「結果的に助けた形になっただけですが…そうですね、そのお礼はありがたく頂きましょう」
少し捻くれた言い方になってしまったが、ラドはランシーンの言葉にホッとしたように小さく息を付いた。
「では、このカニサンド、いただいても良いですか?」
「あ、はい。お口に合えば良いのですけど…」
先程より柔らかくなったラドの微笑みに、ふっと満足げに笑いながら、カニサンドを摘み上げた。そしてそっと口にする。
シャキシャキしたレタス、ジューシーなトマト、そしてカニのちょうど良い塩加減。CEOが絶賛するのも頷ける味だ。
ラドが少し心配そうに見上げている。口に合うかどうか気になるのだろう。
至福の美味をゆっくりと味わいながら、感想を口にしようとした所で、本来の部屋の持ち主が戻って来た。
「ランシーン、留守番を頼んですまなかったね…っと、ラド!来てたのか!ああそうか、カニサンドを持ってきてくれたんだね、ありがとう」
ユルがそう言いながら部屋に入り、ラドの側に寄る。そんな夫をラドは微笑んで出迎えた。
「あなた、お帰りなさい。でも、ごめんなさい、カニサンドはランシーンさんに差し上げてしまって…」
ラドの言葉にユルの視線がランシーンの持つ、空の皿が乗ったトレイへ向く。妻の手作りの、しかも彼の好物を横取りした形になったので不機嫌にでもなるかと思ったが…
「おや、そうだったのかい?どうだね、ランシーン!私のフェイバリットなカニサンドはそれはもう美味しいだろう!」
ユルは気分を害するどころか、まるで自分の事のように上機嫌に得意げにランシーンに語りかけてきた。
思わず半眼になって、突っ込みを入れる。
「いやそれ、貴方の奥さんが作ったんですけどね?…ええ、とても美味しかったですよ」
「そうだろう!そうだろう!」
嬉しそうにする姿に純粋に喜んでいるのがわかり、そう言えば彼はこういう人間だったと、内心でため息をついた。さすがはあの娘の親。
などと、そんな事を思っていたら。
「パパ居るー?」
その娘までが部屋に入ってきた。しかもシロンも一緒だ。
「あれ、ランシーンもいたの?」
「げ」
ハルカの後ろでシロンが嫌そうな顔をしていた。失礼な奴である。
「あら、ハルカ?」
「あ、ママ!なんだ、みんな勢揃いしちゃったわね」
母親を見つけ、嬉しそうに両親のもとに駆け寄る娘を、ユルとラドが微笑ましく迎える。その後ろからシロンも渋い顔のまま寄ってくる。
「なんでお前まで…」
「ずいぶんな言い草だな。部外者はどちらかといえばお前だろう」
言い返されてシロンはムッとしていたが、事実なのだから仕方がない。
ユルによって蘇った後は、彼と共に過ごしていたのだ。付き合いはシロンより断然長い。と言うか、ここを住処としているし。
フフンと笑ってやれば、ぐぬぬっと睨まれた。
そんなウインドラゴンの遣り取りに、ヘップバーン一家は気付く事もなく、楽しげに会話している。
「そういえば、どうしたんだいハルカ?何か用があるのかい?」
いつも通りに和やかに家族の会話をしていたが、ユルが気付いてそうハルカに問いかけると、すっかり忘れていたのか手をパンと叩いてそうだった!と声を上げた。
「シロンさんと出掛けた帰りなの。お土産買ってきたから、今渡そうと思って」
「おや、デートかい?妬けるなぁ」
「えっ!も、もう!パパったら!」
戯けたように父親に問われて、ハルカは顔を赤くして慌てている。そんな娘をユルは微笑ましく見て、そして側のシロンを見上げる。
「娘がいつもすまないね、シロン」
「ああ、いや…」
何やらシロンは、ユルにどう接して良いのか分からないようで、たじたじになっている。
無理もないかと思いつつも、そんな姿に鼻で笑うとジロリと睨まれた。
そんなやり取りを一歩引いて、微笑みながら見守っていたラドに気付いて、ランシーンはそっと歩み寄った。
ラドは今度は一歩引いたりはしなかった。
家族が勢揃いしたお陰か、怯えた瞳が見上げてくる事も無く、すっかり震えも止まっている。そんな事に内心ほっとしながら、空になった皿をラドに指し示した。
「先にCEOに言ってしまいましたが、カニサンド本当に美味しかったですよ。彼が自慢するのも頷ける。貴女のような奥方を持つ彼が羨ましい」
心からの感想を伝えると、少し驚いた顔をした後で柔らかく微笑んだ。
「あら、そんな…ふふ、ありがとうございます」
少し照れたように口元に手を当てて笑うラド。
先程まではあんなに怯えていたのに、今はこうして笑い合っているとは。少しはレジェンズに対しての恐怖が薄れたなら良いと、穏やかに彼女との会話を楽しむのだった。




「ね、ねえ、パパ?いつの間にママとランシーンは仲良くなったの?」
ハルカは笑い合って会話する母親とランシーンの姿に気付いて、思わず小声で父親に尋ねる。
母はレジェンズに対して、恐怖をまだ克服出来ていなかった筈だが…
「ん?本当だね、ラドが怖がらずに話しているなんて!」
父はレジェンズに歩み寄る一歩を踏み出せた母の姿に喜びを隠せず、2人の会話に割って入って行った。
ハルカはそれを、なんとなく不安気に見やる。
それまで楽しげに談笑していたランシーンが、ユルが会話に入ってきた途端に明らか不満顔になった。だが、父は母の事で頭がいっぱいなのだろう。全く気付いていない。
気付いたのはそれを見ていたハルカとシロンだけであった。
「ねぇシロンさん…ランシーンは、まさか…ママの事…」
ハルカは隣のシロンにそっと小声で話し掛ける。シロンもまたハルカに顔を寄せて小声で返す。
「…随分、気に入っちまったみたいだな…」
「大丈夫、よね…?」
何がと聞かれても自分でも分からないが、何となく不安になって聞いてしまう。
「滅多な事はしねぇと思うが…自分の事ながら、何考えてるかわかんねぇな…」
シロンとランシーンは元は同じ存在と言えど、流石にその心まではランシーンにしか分からない。
ハルカはシロンと共に、見守る事しか出来ないのであった。

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