あの時のお礼


「ランシーン」

不意に声を掛けられて、そちらの方へと顔を向ける。
そこにいたのは、ハルカ・ヘップバーン、――このCEOの部屋の持ち主、ユル・ヘップバーンの一人娘の姿だった。
ゆっくりと彼女に向き直る間に、ハルカは目の前まで歩み寄っていた。
「パパは一緒じゃないの?」
「CEOは会議で席を外しています。用件なら、私が代わりに聞きますよ?」
申し出は軽く振られた手によって、断られた。
「いいの、ちょっと顔を見に寄っただけだから」
居ないなら仕方がないと、肩を竦めるハルカの姿を見下ろした。
そのまま帰るのかと思ったが、ハルカはこちらの横を通り抜けて、CEOのデスクへ近づく。
机に散らばる紙の束は、DWC社内に関する資料の他に、レジェンズに関する資料など。
ハルカはレジェンズの資料を手に取り、微笑みながらそれに目を通す。
「パパも、まだレジェンズの研究を続けているのね…」
レジェンズウォーを止める為とはいえ、闇のレジェンズ・ジャバウォックを蘇らせ、世界を混乱に陥れた。結果的には、それは阻止され平穏な日々が戻ったが―
あの事実は消える事はない。確かに、世間の人間のレジェンズに関する記憶は一度消えているが、一部の人間は、再びレジェンズが蘇った事で記憶を取り戻して いる。もちろん、CEO自身もだ。
最初こそショックを受け、取り戻した記憶に苛まれていたようだったが、娘や妻に諭されて以前の自分を取り戻して立ち直ったらしい。
ハルカには、そうして全てを受け入れてなお、レジェンズの研究を続けている父親の姿は、嬉しいものであるらしい。

「そういえば…」
資料の中の一つ、ジャバウォックの物を取り上げて見つめながら、ハルカがぽつりと呟いた。
その呟きに視線を向けると、ハルカの視線とぶつかった。
「あの時のお礼を、貴方に言ってなかったわね…」
「あの時?」
聞き返すと、手の中のジャバウォックの資料に視線を落す。
「私を取り込もうとしていたジャバウォックから、助けてくれた事」
「そんな事も、ありましたねぇ…」
あの時を思い返す。
シロンと一つとなり、ジャバウォックの体内へと侵入した後。
ランシーンとしての意識は消えていなかった。
ハルカがジャバウォックに取り込まれた母・ラドを解放しようと泣き叫び、身代わりを嘆願していたあの時の事は、シロンの目を通して見ていた。
元々の依り代としていたラドを唐突に解放したジャバウォックは、母の解放を喜ぶハルカを身代わりに取り込んだ。
彼女の願望を聞き入れたというよりは、新たな憎悪と悲しみの糧を欲していたように思える。
だから好機だと思ったのだ。ハルカが深く取り込まれる前に、こちらへ誘導すれば勝機があると。
それだけの理由だ。

「―別に、貴女を助けたわけではありませんよ。ああすれば、ジャバウォックを消し去れた。それだけの事だ」
事実をそう述べると、彼女は苦笑しながらこちらを見上げてきた。
「…そうね。そうかもしれないけど…でも、やっぱり私は貴方に助けられたのよ」
手の資料を机へ戻す。そしてゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
「だから、言わせてもらうわ」

見上げてきたハルカの顔は、純粋な感謝を込めた笑顔に彩られていた。

「ありがとう、ランシーン」

真っ直ぐに向けられた言葉に、軽く息を呑んだ。
どうしたと言うのか。
その言葉と笑顔に、酷く動揺している自分がいる事に気が付いた。
だが、それを悟られたくは無く、さりげなく顔を逸らした。

「礼を言われる程ではない」
「それでも言うわ。ありがとう」
ちらりと横目で見たハルカの顔は、やはり笑顔で。それに動揺する自分が不思議でならなかった。
「…私を利用しようとしていたお前に、こうして礼を言われるとはな」
「それはお互い様じゃない」
皮肉を言ってやれば、悪戯っぽい笑みが返ってくる。

―…ああ、悪い気はしない。
そんな自分に気が付いて、気付かれないように小さく笑った。


「少しだけ、分かるような気がしますよ…シロン」

不敵な笑みを浮かべながら、もう少し彼女との会話でも楽しもうかと、ハルカに席を勧めるのだった。
そのうち心配性なシロンが探しに来るだろう。
談笑している自分達の姿を見て、奴はどんな反応をするのか。その想像にさらに笑みを深めた。

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